手の中に残された紙片を、ぼうっとアレックスは見つめた。
“Caro Bucciarati”
それしか書かれていないものの、中身に何が書いてあるかは分かっていた。
「ねえねえ、そこのジャポネーゼの貴女!」
ブチャラティのファンの女の子に声を掛けられた。チームで紅一点のアレックスは、彼女のその自信に満ちた表情を見た途端、またかと思った。チームの男性たちは本当によくモテるし、どうしてこうもイタリアの女性は積極的なんだろうと思う。案の定、彼女の手には封筒が握りしめられていて、彼女は嬉々としてこう尋ねてきた。
「これ、ブチャラティに渡して貰えないかしら? 貴女、ブチャラティさんのところで働いてる方よね? わたし、いつもあそこのカッフェで働いてて、ブチャラティさんにはお世話になっているの」
相槌を打つ暇もないくらい彼女は喋り続けた。そして、いつの間にかアレックスの手の中にはそれが押し付けられ、手紙の主は消えてしまったのだった。
――わたしに何の確認もしないんだなぁ……“念のため訊いておくけど”とかそういう前置きもしないんだ。
勿論、ブチャラティとアレックスはそんな関係ではない。イタリア旅行に来ただけのつもりが犯罪に巻き込まれ、故郷に帰ることも出来なくなったのを助けて貰い、それ以来一方的に思慕の念を募らせているだけだった。チームメイト、部下と上司、それ以外の何物でもなかった。先程の彼女の態度に改めてそれを痛感しながらも、そっと鞄にそれを収めた。
――“Ti amo”かぁ……好きよりずっと重い言葉だな。
そんなことを考えながらリストランテに着いたが、他のチームメンバーはまだ来ていないようだった。テーブルに向かおうとして、思わず立ち止まった。
そこにいたのはブチャラティだった。部屋の真ん中に突っ立って、何かを一生懸命見ている。アレックスは、柱の陰に隠れてそっとその表情を窺った。すると、見なければ良かったとすぐに後悔した。ブチャラティは微笑んでいたのに、その瞳が切ない色を帯びた瞬間を、アレックスはまさに目撃してしまったのだった。更にブチャラティの唇が動き出すのを見ると、耳を塞ぎたくなった。
「“あなたを初めて見たときから心を奪われてしまいました。最早、あなた無しでは生きていけません……”成程な……」
しかし、聞いてしまった。なんてこと……他の女性からもブチャラティは求愛されている。
――こういう時、マンマ・ミーア!って言うんだろうなぁ……。
そんなくだらないことを考えることで、何とか落ち着こうとした。自分にはやっぱり無理だ、いくら彼の傍で彼を想っていようとも、こんなに人を惹きつけて止まない彼に、どうしてその想いを伝えられようか。天井を見つめて、目をかっ開いて、涙よ渇けと祈った。そして、口角を上げてブチャラティに近づいた。
「ぶ、ブチャラティ……」
思わず震えてしまった声にしまったと思ったが、ハッとして振り向いたブチャラティにこちらが驚いてしまった。ブチャラティにも焦ることがあるのだ、そんな手紙の彼女には不可能であろう小さな発見を積み重ねられるのなら、いいではないか。そう思うと自然に笑顔になれた。
「あ、ああ、アレックスか……」
気を遣って手紙を隠したのだろうが、そんなシリアスな彼の空気を吹っ飛ばしてしまいたかった。
「相変わらずモテるのね、ブチャラティ」
いつもだったらフッと笑い返してくれるはずだった。なのに、なぜか彼の表情は固いままだ。それを見るのも辛くなってきて、彼に背を向けた。
「お、おい待てアレックス。コレは、違うッ……」
「何が違うの? ラブレター、嬉しかったんじゃあないの? だから声に出してまでニコニコしながら読んじゃって」
そこまで言ったところで、両肩に痛みを感じた。ぐるりと視界が変わったかと思うと、変わらぬ表情のブチャラティがいる。どうしてわたしは彼に掴まれているんだろう。そして、彼の上気した顔と手から伝わる温度が、アレックスの顔にまで伝わってきそうだった。
「#name#……」
二人の間にハラリと落ちた白い物体。
――そうだ、ブチャラティの両手はわたしにあるんだもの、落ちてしまうわよね。
そう言って屈もうとして、紙に書かれていた文字が目に入った。
――“Caro アレックス”? しかもコレ、子どもの字……?
途端にその手紙と思われるものも、リストランテの床も見えなくなった。見えるのは一面の白と、オタマジャクシのような黒点だけ。
「読む必要は無い。もう俺が読んでやったのを聞いていたんだろう?」
頭の上から声が響く。肩だけにあった熱が、今自分の上半身を包んでいる。抱き締められていることに気が付くと、アレックスの心臓が高鳴った。
「すまなかった……今までライバルとも思っていなかった奴からの、俺が愛して止まない女宛てに着たラブレターだ……これが読まずに居られるか?」
まさかと思った。夢なんだろうかと。しかし、そこであの言葉が振って来た。自分には一生言えないと思ったあの言葉だ。
「Ti amo, アレックス……」
目の奥が熱くなる。黙って頷き、その愛しい人の腰にそっと腕を回した。今なら言える。
「Ti amo, Bucciarati」
* * *
視線を感じて、ドアの方に目をやれば、いくつもの目玉が覗いている。途端に別の意味で顔が熱くなった。押し戻そうとしても、彼は離してくれない。そのうち、一際高い位置にある目玉の下に、紫色の唇が覗いた。
――ほら、言ってみるのは簡単だったろ。
ゆっくりそう結ぶと、彼は他の目玉たちと一緒にそっと消えて行った。
FINE.
※”Caro ○○”……”親愛なる○○へ”(=Dear)