バレンタインの夜に【アヴドゥル】

 彼の乗った飛行機はあれかしらと、ライトをちかちかさせながら着陸する飛行機を何機も迎えた。でも、いざ降り立った彼を前にすると、何と声を掛けていいのか分からなかった。普段のメールのやり取りでも、何気ない話はあったとしても、肝心の話はない。
 でも、時々語られる彼のうんちく話だって好きだった。けして空気を読まずに知識をひけらかすわけでもない彼。だからこそこんなわたしの想いに気付いて、とも思うし、ハッキリ物を言えないわたしにだって苛立ちを感じる。ラッピングされた箱が入っているショルダーバッグのベルトを思わず固く握り締める。

「久し振りだな、アレックス」

 そう言って手を上げるアヴドゥルさん。共にエジプトで死闘を重ねたあの時から年月は経ったけど、その振舞いにはより成熟したものを感じる……なんて、あの時子どもだったわたしが言うのはおこがましいかしら。

「ええ、アヴドゥルさんはお変わりないですね」
「そうか?  でも、君は……奇麗になったな」

 表情ひとつ変えることなく言う彼に、わたしの身体の体温は上がる。でも同時にそれはすぐに急降下した。こんなにも年月が経ったのに、アヴドゥルさんの中のわたしは子どものままなのかと。

 * * *

 誘導灯が星のように光り輝く夜の空港は、さながら夜景スポットだ。そんな景色を横目に歩く、少し年の差のある男女は、カップルに見えるのだろうか。

「ここだ。ここに来てみたかったのだ」

 わたしの祖国の空港であるのに、なぜか彼に誘導されて連れて来られたのは寿司屋だった。しかも回転寿司ではない。

「アヴドゥルさん……わたしこんなところさすがにご馳走できませんよ……」
「何を言うんだ」

 君にそんなことさせるわけない、と彼は驚いたように言った。

「悪かった。気遣わせるつもりはない。なに、回ってはいないがそんなに敷居が高い店でもないんだ。せっかく日本に来れたのだから、付き合っては貰えないか?」

 かと思えば、そんな優しい笑みを浮かべて言う。断れるわけがない。
 彼について行くように入店したが、なるほど、彼の言う通りだった。お品書きにもきちんと値段が書いてあるし、そういったコンセプトのようなものが書かれた掲示も見つけた。店員さんもどこかカジュアルな服装で威勢がいい。

「いわゆる寿司ダイニングというヤツだな。エジプトのカイロにもこういった店はあるんだが……日本に来れたのだからと言いつつムジュンしているな」

 ハッハッと笑う彼にどこかぎこちなさを感じた。

「しかし、さっきの君を見てやはりここにして良かったよ。ジョースターさんも言っていた。あまり高級な店に君を連れて行くと君は躊躇してしまうだろうと」
「ジョースターさん、アヴドゥルさんが来日されること知ってたんですかッ!?」

 そう、それはこの日の約束をしてから、ずっと気になっていたことだった。彼はスピードワゴン財団の関係で来日すると言っていたのに、彼を迎えに来たのはわたしひとりだった。承太郎も花京院もいない。アメリカ在住のメンバーもいるとは言え、違和感を覚えずにはいられなかった。

「……わたしだけ昔を懐かしんで味わってるみたいで、なんだか申し訳ないです」
「いいや、構わないんだ。花京院も後日会うつもりだ。承太郎はアメリカだろうしな」

 さあ、君も好きなものを頼むんだという彼と、その後はいつものメールの内容と同じ話をした。昔の話にも花が咲く。わたしはバッグの中の箱を、すっかり渡しそびれてしまっていた……。

 * * *

「すみません、アヴドゥルさんが本来ゲストのはずなのに」

 結局アヴドゥルさんにご馳走になってしまった。

「いいや。それにしても君はけっこう面白い軍艦を頼んでいたな。あのイカのみじん切りと一緒に載っていた緑のものは何だったか?」

 そして結局、回転寿司でいつも食べているようなものしか食べないわたしもどうなのかと自分でも思う。本当に彼らとエジプトで死闘を重ねたのかと思うほどに意気地がない。だが、アヴドゥルさんと久々に食事をともにしている……それだけで特別な空間だったのだ。何を食べようかなんてとても考えられなかった。
 オクラですよ、と答えているうちに、レストランエリアから別の店のエリアに来たのか、やはり赤やピンク、ハートの装飾が目に入るようになってきた。だが、もう遅い時間になってきて、店員がそれを片付け始めている店もある。渡せずにいる箱のことを嫌でも思い出さずにはいられなかった。しかし、彼もその光景が目に入ったようだった。

「今日はバレンタインデーだったな。日本もやはり赤い飾りをするのか」

 こちらの方が控えめで落ち着く。アヴドゥルさんはそう言った。エジプトはクリスマスからバレンタインまで、街には赤い装飾が続くらしい。そんなことを言った後、彼は人の通りもまばらなそこに立ち止まって、わたしに向き合った。

「アレックス、本当に不甲斐ない私で申し訳ない」
「……え?」

 突然何を言いだすのだ。あ然とするわたしに彼は続ける。

「ジョースターさんだけでない、ポルナレフにも連絡を取った。ヤツは今、なぜかイタリアにいて……イタリアだと、洒落っ気のあるディナーに行くのがいいと言うのだ。それで日本にいるなら寿司だろうと。赤いクマの人形はどうかと思うぞと」
「赤いクマ……?」
「エジプトのバレンタインデーの定番だ」

 それを聞いてわたしはさらに動けなくなった。

「来日がこの日になったのは、偶然だ。でも、財団の迎えを断って君を呼び出したのは……この日なら、会いたいのは君だと思ったからだ。いや、違うな。普段連絡を取り合っていたときから、ずっと会いたかった」

 ハッキリと口にしたものの、彼は荷物も手にしたままで、直立不動そのものだった。でも、それだけで十分だった。自分だけではなかった、想っていたのは。そんな確信を得てからなんて狡いだろうか。ずっと鞄の中で眠らされていたものを、やっと取り出すことができた。

「これは? 私に?」
「ええ、これが日本のバレンタインデーです」

 彼にそっとそれを差し出した。でも、それだけで終わってはいけない。さっきの彼の言葉を返さなくてはいけない。

「アヴドゥルさん……日本のバレンタインデーのチョコレートは、色んな意味があるんですけどご存じですか?」

 彼も、手を差し出しながらも神妙な顔をしている。だからわざわざ尋ねなくても分かってはいた。ああ、こちらを一生懸命見ながら頷く彼に、わたしは続けた。

「わたしは今日会社に行きましたけど……誰にもチョコレートは渡していません。それに用意したのはこれだけです」

 彼の手のひらの上に箱を載せながら、そっと彼の浅黒い手に触れた。

「アヴドゥルさん……わたしもずっとずっと会いたかったです……」

END.