「ピンポーン」
その音に、どれだけわたしがびっくりしたか、貴方にはきっと想像つかないんでしょう。だって、約束はカメユーデパートで現地集合だったはず。なのに一体どうして、この人は訪ねて来たんだろう。
ほとんど完了していた出掛ける服装に、バッグを持って玄関へ駆けて行く。ガチャリとドアを開けると、素っ気ない態度の露伴先生がいた。雨が降っているのにやはりスケッチブックとカメラ持参だし、レインコートを着ることもなく持っているのは一本の傘のみだ。どうしてわざわざ、と訊いても答えてくれない。そして、わたしの玄関に目をやると、それを指差して言った。
「君、あれはもしかして……」
なぜ露伴先生が訪ねて来たと分かった瞬間、何も考えなかったのか、隠すことを忘れていたのか後悔した。
先生が指差したのは、少し小ぶりな白いビニール傘……それはこの間露伴先生の漫画のイベントがあったとき、参加者に無料で配布された、恐らく使い捨て同然の傘だった。会場でわたしを見つけた露伴先生が、他の参加者には分からないようさっと係の人から貰ってきて、手渡してくれたのだった。
「そんな小さくてあまり役に立たないものをとっておくのか、君は……」
「そりゃッ……まあ、そうですけど……勿体ないし……」
「他にも傘があるのに……意外と貧乏臭いんだな……」
やはり彼は辛辣だ。でも、これを捨てなかったのにはワケがある。でも、それは露伴先生にこの傘を見られたくなかったのと同じくらい、知られたくない理由だった。だから黙っていた。
「言いたいことがあるなら、素直に言いたまえ」
「ありません。それより、こんなところで押し問答してたって時間の無駄です」
「それは違うな。君がいつまでも言わないでいる方がお互いイライラして時間の無駄だ」
その傘を持って玄関を出ようとしたのに、あっさりと通せんぼされてしまう。傘の柄ではなく胴を掴んでしまった手に力が籠り、ぎゅっとビニール生地に皺を寄せる。
「だって……初めてだったから……先生から何か貰ったのって……」
決してプレゼントが欲しいと言っているのではない。
何か欲しいのなら、それこそ『ピンクダークの少年』のグッズでも買えばいいだろう……もう既に買った物もあるが。そして、与えられたいのなら、わたしからも彼に贈り物をすればいい。たとえ彼の美的センスに敵わないとしても。
でも、そうじゃあない。露伴先生が直に触れて、わたしのために持って来てくれたモノ。そう思うと迂闊に捨てられなかった。
案の定、露伴先生はそれを聞いて押し黙ってしまった。わたしは後添えのように、何かを強請っているわけではないと慌てて伝えた。しかし、彼は黙ったまま踵を返し、玄関を出ると持っていた傘をパンと開いた。やはり、へそを曲げてしまったのか……帰ってしまうのかと思い、ごめんと言いながら玄関のドアを閉めようとしたその時。
「何をしているんだ、早く入れ」
「え……?」
露伴先生は振り向いて立っていた。まるで待ってでもいるように。荷物が濡れないよう小脇に抱えた横にスぺースを作り、その反対側は、傘が傾けられたせいで若干雨に晒されている。
「早く入れ。僕もあまり濡れたくはないんだ」
つまり、それって……わたしは顔が一気に熱くなった。それでも言い訳めいたようなことが口から零れ出てしまう。
「いや、でもここに傘があるのに……それにスケッチブックが濡れますよ……」
「だから、いいって言ってるだろッ。大事に取って置きたいなら、使わないでおくんだな。そんな安物の傘はすぐ壊れてしまう」
決して彼は怒っていたわけじゃあない……いや、もしかしたら最初はムッとしたのかもしれない。でも、その傘を取って置けという彼の配慮に気が付いて、今度は目が熱くなった。そっと彼の傘に入る。じんわりと湿った空気が漂うのは、雨のせいだと必死に自分に言い聞かせた。
* * *
カメユーでは、彼はいつも通り、人の集まる場所でスケッチや写真撮影をして、わたしは遠目にそれを見つめたり、スケッチの間彼を横目で見つめたりした。そのままふたりでデパート内の喫茶店でお茶をして、さっきの話には触れないまま、取るに足らない話をして過ごした。
一階に降り立ったところで、そろそろお開きかなという雰囲気をわたしは感じ取った。いつもの流れだ。それでも、わたしは傘が無いから、また先生は相合傘をしてくるつもりなんだろうか。すると、露伴先生は急にどこか目的地でもあるかのように颯爽と歩き出した。それについて行けば、着いたのは何とファッション雑貨の売り場だった。並んでいるのは、色とりどりの傘だった。
「ちょっと、露伴先生、一体……」
「あんな安っぽい物が僕からの贈り物だなんて心外だ」
まだ覚えていたのか。だから、強請ったわけじゃあないのに……思わず溜め息をついてしまう。その間に、露伴先生は次々と傘を開いてみては閉じていた。どれもブランド物でキレイな色や柄の傘だ。
露伴先生は傘を見ながら、中国や台湾では傘は縁起の良くない贈り物だと教えてくれた。でもここは日本だから構わないな、と。相槌を打つしかないわたしをよそに、先生はその内一本の傘を持って、店員に話し掛けた。カウンターにそれを持ち帰った店員の手によって、それはキャンディのように端をリボンで絞られた、どこか可愛らしいプレゼントへと変貌した。
露伴先生はそれを手にして、今度こそ入口へ向かう。そこでやっとわたしに向き合って、今買ったものを両手を添えて差し出してきた。しかし、やはりこんな事は慣れないのだろう、視線はしっかりと明後日の方を向いている。そして、何も言わない。
「露伴先生、ありがとうございます……わざわざラッピングまで……」
だが、受け取って包装のリボンにやろうとした手を、なぜか握られた。
「何をやってるんだ、君は」
「え、だって……」
わたしはどうやって帰るというのだ。それに、これを貰ったのはわたしなんだから、どうしようと勝手では無いか。そう発言しようとしたところで、露伴先生はわたしから離れ、再び自分の傘を開いた。
「今は……いいじゃあないか。どうして君はこうも、分からんちんなんだ」
そう怒りながらも、彼は待っていた。わたしの家まで迎えに来たときのように。スケッチブックとカメラは相変わらず傘の中央側に、小脇に抱えられていた。しかし、さっきと違うのは、小脇にそれらを挟んだ先の手が開かれていた事だ。顔の熱が戻ってくる。それどころか、もっと熱くなったような。今日はこんなに蒸していたかしら。そんなわたしがぼーっと突っ立っているように見えたのか、露伴先生は自らその開いた手でわたしを傘に誘い入れた。スケッチブックの肩紐がずり落ちるのも構わず、わたしを抱き寄せたまま、先生は歩き出した。
「先生ッ……」
彼の顔は傘が開かれたときから赤らんでいた。抱き寄せられたことで、またじんわりと熱が伝わってくるのが分かる。彼は前を向いたまま言う。
「その『先生』っていうのも、いい加減止めたらどうだ?」
END.