「ねぇ、フーゴ、ここ以外にはどこか弾いてるトコあるの?」
そう上目遣いで尋ねる彼女に、僕はウンザリした。
視線を合わせることなく、溜め息の呼吸を鼻から吐いたが、彼女にはお見通しだったようだ。
「もぅ、そんな嫌そうな顔しないでよ~!
フーゴがピアノ弾いてるトコがあるなら、わたしもそこで歌いたいなって思っただけ!
営業よ、営業ッ!」
ブルネットの髪に差された白い花が映える。近づいたときにふっと香る柑橘系の香り。
こちらを愛らしく見上げる大きな瞳も、嫌でも彼を彷彿とさせる。
だから、出逢った当初からフーゴは彼女をあまり見ないようにしていた。
それなのに、好むと好まざるとに拘わらず、人にすり寄ってくるところまで同じなのだから、たまったもんじゃあなかった。
フーゴには実家にいたとき習わされていた中途半端なピアノの腕しかないが、それでも彼女の歌声が魅力的なのは分かった。自分の出番でなくても、思わず聞き耳を立ててしまう。何度自分に言い聞かせて耳を塞いだだろうか。
それは嫌でも死んだと噂の仲間を思い出させた。そして、それにより、彼女と自分が関わってはいけないことを痛感させるのだった。
「来るんじゃあない」
フーゴは彼女にそう言い放ってバールを出た。
皮肉にも、それはフーゴが聞いた、かつての上司からの彼への命令だった。なのに、彼はついて行ってしまったのだ。自分は、行かなかった。
「待って」
バールを出てしばらくして、カチャリという音と共に、自分の背後に何かが立った。冷たい金属の音に、突き付けられたのだと分かった。
「次の〇曜の〇時、ジュペッゼ・メッツァに来い。ですって」
「サッカーなんか興味ない」
「断れると思って? 迎えに来るわ……」
そのままスッと影のように、特徴的な編み込みをした影はどこかに消えた。背中を嫌な汗が流れて行った。
しかし、本当に焦ったのはそこからだった。
「ミラノに……行くの?」
透き通るような声に、ギクリとして振り返った。それは青ざめた顔をした彼女だった。
「来るんじゃあないと言ったのにッ!」
「だって……フーゴが心配だったの……フーゴ、自分の事何にも言わないじゃあないの……」
「君だって、あそこで歌ってるんだ、世の中知らなくていいことや汚いことがあるのは分かってんだろーがッ!」
それでも彼女の瞳は真っ直ぐフーゴを捉えていた。煌めくそれに、フーゴは視線を合わせられなくなった。
「ね、フーゴ、すぐ目を逸らしちゃうでしょ……? わたしに、何かあるの?
でもフーゴだって、わたしと同じ……猫のように人を避けていくの、そのくせ寂しそうなの、昔のわたしだわ……」
なんで僕がそんな言葉を掛けられなくちゃあいけないんだ。そんな言葉を食いしばって耐えた。近づくたびに、僕の中の何かを踏みにじって行く。彼女にそのつもりがなくても。きっと、彼女の純粋な優しさなのだろが、それが仇になっている。
「いいから、来るな」
僕はそこで、彼女の名前を初めて呼んだ。彼女の目が大きく見開かれる。
「僕は……本当は君の伴奏さえ弾いていられないヤツなんだ。あそこから……逃れられる者はいない」
そうだ、あの時の僕もそう思って船に乗らなかったはずなのに。
「いいか、僕はなんとも思わない。君は歌うんだ」
これが、せめてもの慰めだ。僕が彼女の足枷とならないための。僕はいい加減、あの日の彼らと向き合わなくてはならない。だから君も、君の歌を歌うんだ。
FINE.