【アレックス視点】
一面に緑色が広がった。それが天井だと気が付くと、見ていたのは夢だったのかとぼんやり思った。
あの事はしばらく頭から追いやっていたはずだった。でも結局、最近高校時代を懐かしんでいたのは、あの事があったからに違いなかった。それにしても酷い夢だった。ブチャラティチームのメンバーが高校時代に乱入して来るとは。
「アレックス」
名前を呼ばれてハッとした。そうだ、ここはどこだ。アパートの自室ではない。
反射的に起き上がり、自分が写るものを探した。なぜか自分は点滴に繋がれていて、その金属製のポールを見た。縦長に伸びているものの、そこにはいつもの起きがけの自分……女性の自分がいた。確認するまでもないはずだったが、そのポールの奥にいるアバッキオに焦点が合うと、今こそが夢であって欲しいと願わずにはいられなかった。これこそが悪夢なのだと。
呼び掛けることなく無意識の内にスーパー・スターが発動され、腕がどんどん太くなり、視線が高くなった。
「おい、もう良いだろうが、スタンドを出さなくったってよ。
医者によれば、過労と睡眠不足だとよ。無理にスタンドを出すな」
すぐアバッキオに制止されてしまった。
スタンドを出さなくていい……その言葉で、もう取り返しのつかないことが痛いほどに分かった。
アバッキオはもう知ってしまっている。この姿こそがわたしだということを。
そこで、スタンド攻撃を受けたことを思い出した。
「よく考えてみれば、お前はいつも何かを探して見ていた。確認していたんだな、自分の姿をよ。気付かなかったぜ」
アバッキオはパイプ椅子に深々と掛け、脚も腕も組みながら言った。
そんな彼に、あの後どうなったのか、経緯を尋ねた。
自分はスタンド攻撃を受けて写真に変えられたこと、ジョルノが荒療治で元に戻したことを聞いた。敵が言うには、わたしは過去の懐かしい思い出に閉じ込められ、さ迷い続けたまま殺される運命にあったそうだが、ジョルノによってわたしの記憶は撹乱され、結果的にスタンド攻撃は破られたと。
納得がいった。面接試験が来るのはいつでも良いと、浮わついた気分になったことが、今では恐ろしく感じられた。
アバッキオは続けて、ここに連れてきたのはジョルノだが、自分が来たので帰したと言った。
「皆もう、知ってるんですか……?」
自分の声が震えているのが分かった。訊かないワケにはいかなかったが、その答えを聞くのは恐ろしかった。
「ああ。報告しないわけにはいかなかったからな」
その言葉に、目の前が暗くなった。思わず、引き寄せるように立てた膝に、顔を埋めた。
アバッキオの呆れたような溜め息が聞こえた。
「お前は、スタンドを解除させないっつー覚悟でいたんじゃあなかったのかよ。
なのに朝からぼんやりして、つけ込まれやがって」
「それは……」
弁解の余地もない。その通りだ。わたしは返す言葉もなく項垂れるだけだった。
「アバッキオ……敵のスタンドに嵌められたのは、俺だけだったんですか?」
「ああ? だから言ってんじゃあねぇか」
いつもの癖で男言葉が抜けないまま話してしまった。そのせいかアバッキオに怪訝な反応をされた。
「それじゃあ、アバッキオは過去を完全に忘れたんですね……。
フーゴから聞いたんです。あなたは昔、警官だったって。詳しく聞いたわけじゃあないですけど。
考えたんです。男はいいよな。俺……わたしも男だったら、どんなに良かったかって……」
言い終えない内に、アバッキオはパイプ椅子を蹴るように立ち上がり、わたしの肩と胸ぐらを掴んで立ち上がった。
話してる途中から、アバッキオが震え出しているのには気付いていたが、もう止まらなかった。
「勝手なこと言うんじゃあねえぞ、貴様。
女だったことで不遇だったのは同情する。だが、どっちにしろお前には向かなかったに違えねぇ……警察なんて、お前を襲ったような汚ねえヤツばっかりなんだ。正義なんかねぇ」
思わず耳を疑う。今度はわたしが震える番だった。
――わたしが襲われたこと……それはブチャラティしか知らないはず……。
わたしの表情に、アバッキオも口を滑らせたことを自覚したらしい。
胸に不快感を覚えて振り払ったアバッキオの手は、簡単にほどけてしまった。
「ブチャラティが……喋ったのか……?」
「これは……ブチャラティから聞き出した。知ってるのは俺だけだ。」
「なぜ聞き出す必要があった……? それに、なんで警官を辞めた……?」
フーゴから聞いたときに抱いた、あの自分勝手な怒りが湧いてくるのを感じた。
そのせいか口調も乱れてくる。
「アバッキオのせいにするつもりはない。
だけど、フーゴからアバッキオが警察官だったと聞いて、考えずにいられなかった。
そこにつけ込まれて足を引っ張ったのは本当に申し訳なかったが……」
一度怒らせているのだ、答えてはくれないと思ったが、アバッキオはふうっと息をつくと、再度パイプ椅子にだらしなく腰掛け、話してくれた。
だが正直、気安く聞く話ではなかったと後悔した。
自分のせいで罪のない人を死に追いやった……。そして、正義の意志というのがこうも脆いものかのかと思った。あのアバッキオさえ、いや、正義に燃えていたアバッキオだからだろう。
失望からやってきた誘惑に自分が打ち勝てる保証など、どこにもない。
そう思うと、さっきの自分の発言がとてつもなく幼くて、愚かだったと恥ずかしくなった。
「ブチャラティが俺たちにまで何を黙っていたかったのか……俺はそれが知りたかった。
まさか、俺の秩序を守るためとは思わなかったがな。
でも、決して忘れたわけじゃあねェ。俺の罪は一生消えることはねェし、時計の針を戻したいと思ったことがないわけじゃあない。俺が写真屋のスタンドにやられなかったのは、正直俺も腑に落ちないところはあるぜ。しかしだ」
アバッキオはしっかりと前を見据えて言った。
「今はブチャラティのところが居場所だ。それ以上のことは何もない。
お前だって男でいるのは、自分を変えて、前に進むためじゃあなかったのかよ。生きていくためってのは、言うまでもないがな」
そこでハッと気付く。アバッキオはこれまで、わたしが男でいたことを何も責めていないことに。
「その……気安く訊いて、すみません。昔のこと。
あと、わたしが男のフリしてたことも」
「律儀だな」
アバッキオは意外にもニヤリ笑った。
「確かに最初は納得いかなかったぜ。チームに秘密を持つ……かつ、それをブチャラティと共有していたこともな……。
でも、ブチャラティは何度も言ってたぜ。俺たちと共に過ごした時間、こなした仕事……それに偽りはねェってな。俺たちは確かに歩んできたってことか」
そうだとしても、命懸けの任務の中で、信用の失墜は大きいだろう。
わたしだって無垢なわけじゃあない。相手がどんなクズ野郎だったとしても、ソイツの頭蓋骨を破壊したのは事実で、ヤツがいくらお金に困らない立場だったとして、後遺症が残るようなケガを負わせた狂気の女なのだ。それに……。
するとノックの後、看護師が入ってきて、わたしの点滴が終わったことを確認すると、そのまま帰宅していいことになった。
病院を出てから、わたしはスタンドを発動させた。隣を歩いていたアバッキオがそれに目くじらを立てる。
「やっぱりそれは止めないのかよ」
「そりゃそうですよ」
ただ、と前を見据えて言った。
「もちろん、皆には説明して謝ります。
アバッキオやブチャラティみたいに全ての事情を知ってるわけじゃあないから、理解は得られないかもしれない。でも、俺はここでしか生きていけないですから」
隣で歩調を合わせてくれるアバッキオを心強く感じた。もちろん、それではいけないと分かっているのだが。
「アバッキオ。俺が女だから同情するって言いましたね。
でも、それじゃあダメなんです」
「別に同情してるわけじゃあない」
アバッキオは足を止めて言った。
すると、こっちへ来いと顎で示すと、誰もない裏道に入った。そして、何の前置きもなくこう言った。
「もう一度、戻れるか?」
一瞬何のことか分からなかった。しかし、早くしないと人が来ると言われ、やっとスタンドのことだと分かった。渋々ではあったが、解除した。
今まで自分のアパートでしか解除したことがないのだ。この上なく緊張する。
「“スーパー・スター”か。良い名前だな」
思わず、そんなことはないと言い返した。しかし、アバッキオは続ける。
「少なくとも、お前は前に進んでるし、昔の想いだって忘れていない。良い意味でな」
買いかぶりすぎだと思った。
そもそも、まるで俳優の特殊メイクのように変貌するわたしをそう例えたのがブチャラティだった。しかし、それは違うと既にその時から思っていた。むしろ、誰にでも慕われ、頼られるブチャラティこそ、スーパー・スターではないかと本気で思った程だ。
いくら外見を変えても、そこにわたしというアイデンティティーはなかった。棄てるしかなかったからだ。
そして、強そうな女性になっても男からは見くびられ、婦人からも印象が良くなかった。
しかし、男性の姿も苦労が無いワケではなく、結局万能の姿など無いと、自分のスタンドに限界を感じた頃だったと思う。
結局はブチャラティだって自分だって、一番輝いていたのは組織に入る前だろう。
ブチャラティなど、いくら自分を棄ててしまったか検討もつかない。
そんな、それぞれの過去に思いを馳せた形の、“スーパー・スター”という名前だった。
それを伝えようとした。でも、それよりもアバッキオの方が早かった。
わたしの片手を握り、しかし顔は反らして、言った。
「お前が、眩しい。
でも、お前を知ったから、俺も過去の輝きを思い出した」
もちろん、囚われ過ぎない程度にな、とアバッキオは言い添えた。
突然触れられることは慣れていなかったが、この時だけは、アバッキオの手から伝わる熱を感じていた。
「今はギャングだけど……」
「ああ。でも少なくとも、意志は真っ直ぐじゃあねぇか」
高校の友人たちの言葉を思い出した。真面目なギャングなんているんだろうか。
「そういうあなただって、時々、正義の滲み出たツンデレみたいになってる」
まったく色気の無い誉め言葉になってしまった。
しかし、アバッキオの手が震えたのは、きっと笑ったからだと分かった。
結局スタンドを解除したまま、その裏道をアバッキオと並んで歩いた。
* * *
閉店後のリストランテに行くと、ブチャラティたちがまだ残っていた。店員に席を外して貰ったところで、わたしはスタンドを解除した。今回任務で心配を掛けたこと、何より 女性であることを隠していたことをチームのメンバーに謝った。そして、これからもブチャラティのチームで仕事をしていきたいと請うた。
ナランチャやフーゴには戸惑いも見えたが、これはもう、信頼を取り戻していくしかないだろう。ミスタやジョルノにしたって、きっと、ブチャラティやアバッキオが納得しているからこその、やむを得ない不本意な了承なのだろうから。
だからというわけではないが、チームのメンバー以外から目につかないところでは、時々スタンドは解除するようになった。ミスタは相変わらずからかってくるが、それが彼なりのコミュニケーションのやり方なのだと分かるようになってきた。
アバッキオとは、もしかしたら、ただ傷を舐め合ってるだけなのかもしれないと思う時もある。でも、完全に封じ込めたかった過去を恐れず、煌めいていた過去にすがり付くこともなくなったのは、彼のお陰だろう。
過去は戻らない。だから、前に進むしかない。でも、静かにそれを見つめられるようになった時、わたしたちは暗闇でも蜃気楼でもない、蒼い夜明けを見ることができるのだから。
FINE.