向こう岸の海に浮かぶ、厳めしいその城を眺めた。
まだ時期は早いかもしれないが、少しずつ緑が芽吹き、春の花は蕾が膨らみかけているこの良い日。人々を魅了してやまないこの地に、わたしはいつも沢山の人々を案内して――いるはずなのに。
街は人っ子一人通らない。なぜかあそこのカフェのオープンテラスで、ノートパソコンを一生懸命叩いている男性がいるが。この時期によくそんな事ができるなと、チラリとその人を見た。街を歩く人々も、この国では滅多に付けられないはずのもので顔を覆う。まるで仮面ではないか。
「卵が割れると、なんで滅びるんだろう。生まれるはずなのにね」
こうまで世の中が窮屈になってくると、普段考えないことまで考えだすのは本当に精神に悪い。目の前の卵城にさえ悪態を付き始めたぞ、わたし。
「『あれが卵城でございます。この城には卵が埋められていて、その卵が割れるとこの世界は終わると言う伝説があります』」
「は……?」
急に背後から声を掛けられて振り返れば、それはさっきからノートパソコンに向かう彼だった。よく見れば奇妙な服を着ているし、服も髪もアシメントリーだ。目には左目だけが開いたマスクをしている……のに、口も鼻も覆われることなく無防備だ。
「アンタがいつもここで言っているフレーズだ。いいや『言っていた』、かな」
「なんで……?」
わたしがここでガイドの仕事をしていたのを、この人は知っているのだろうか。
「大丈夫、ベイビィに教えておくよ」
そう言って彼はカタカタとキーボードを操る。いや、そうじゃあなくてという言葉を、わたしは黙って呑み込んだ。その代わりと言っては何だが、別の疑問が漏れ出る。
「ベイビィ……?」
「ああ、追跡してる」
追跡、という言葉にドキリとした。わたしの事を知っていたのは、もしかして……。しかし、わたしのそんな思いは表情に出てしまっていたのか、彼はキーボードの手を止めてやっとこちらを見た。
「心配ない。今、追跡してるのは別のターゲットだ。ベイビィはアンタの今言っていた卵城と同じ。生まれたはずなのに俺以外には災いでしかないからな」
そこでノートパソコンからツツツツッという音声が響く。モニターに文字が表示されるときに発せられるのだろうか。それを見て男性は笑みをこぼした。
「ディ・モールト……」
どうも上手くいったらしい。そのまま静かにこちらを向くものだから、わたしは思わず後ずさりしてしまう。
「だから心配ないと言っただろう。ターゲットでないのはもちろん、君は母体にはなれない……あの城のようにはさせない」
彼は椅子から立ち上がると、そろりそろりと歩み寄った。わたしの後ずさりにもあっという間に追いついて、グローブを嵌めた手でわたしのマスクを引っ張った。
「俺はいつもここにいたのに。それが今はどうだ……雑踏自体が消えて、俺と君だけがここにいるんだ。君もやっと俺に気付いてくれた」
フワリとソレが取り払われて、頬から下にも冷たい空気が当たった。かと思えば、生温かい気配を感じた。
「いいや、君も俺にとっての城かもしれない。君が終わるなら、俺の世界だって終わるから」
FINE.