ノコギリを使って、板を切り出す。ギコギコという音と、飛び散る木くず。砂時計の砂のように積もりゆくそれを見ながら惰性で前後させていたら、がくりとバランスが崩れた。ばきりという嫌な音を伴って、壁になるはずだったパーツは秒で使いものにならなくなってしまった。
――ホルマジオが、あんなこと言うから……。
勿体ないことをしてしまった。仕方なく、床と壁で使う材料を逆にしようと新たに材料を取り出す。
「一緒に住まねえか」
突然ホルマジオがそう言いだしてから、ずっと自分はこんな感じだった。
「金のこととか、色々効率良いから住むんじゃあねぇぞ?
俺は仕事が不定期だしよォ、でもってお前は大抵、家で仕事してるじゃあねーか。
俺は仕事が終わって家に帰ればスイートハニーにすぐ会える」
悪くない話だと思うぜ? 彼は情事が終わった後で、尚もわたしの身体の柔らかい部分をさわさわと撫でながら、そう言った。今思えば、お互い収入が少ないから生活費のためにだとか、家事のメリットを言うだけじゃあなくて、お前と一緒にいられるっていう部分をハッキリ言って来るのが彼らしいし、ずるいなと思う。
その場では「Si」と答えたと思う。「Bene」と言ったかもしれない。
でも、後日、新生活の準備の相談で、ホルマジオの家に初めて行ったとき、それを後悔したわたしがいた。その原因は、玄関で彼を出迎えた、彼女にあった。
「よしよし、良い子にしてたか、お嬢ちゃん?」
すり寄って来た彼女をホルマジオは抱き上げて、そのふわふわした毛並みに手を沿わせていた。それはわたしにとっては正に天敵の出現だった……それがたとえ「彼女」でなく「彼」であったとしても。わたしの居城に立ち入って遊んでしまう子ども、かつ、毛をまき散らして歩く生き物は、仕事の上では死活問題だったからだ。硬直して立っているわたしを振り返り、ホルマジオは目を丸くした。
「悪ィ、猫嫌いだったか? アレルギーあったか、お前?」
慌てて首を横に振るも、ホルマジオはそうか、とだけ言って部屋に入って行ってしまった。
――猫、好きなのは知っていたけど……まさか、飼っていたなんて。
いいや、そうじゃあない。わたしは、自分の心にどす黒いものが流れ込んでくるのを認めざるを得なかった。
――わたし、ホルマジオの事、何にも知らないんだ……。
そして、こちらの方が重傷だった。
――それでもドールハウスの方が大事だと思っているわたしがいる……あの子は、生き物だというのに。
* * *
最初は趣味だけだったはずなのに、ドールハウスを作ることでお金を貰うようになって何年経つだろうか。ホルマジオと出逢ったのも同じ頃だったように思う。
「ねぇ、そこのあなた、落としましたよ」
坊主頭に赤いジャケットと、よく目立つ格好をした彼に、わたしは声を掛けた。自分がまさか声を掛けられているとは思わなかったのか、彼はそさくさと歩いて行ってしまう。
「ねぇ、あなただってば……ん?」
彼の落とした物を拾って、わたしは驚愕した。それは精巧に作られた琺瑯のスリムポットのミニチュアであった。なぜか赤い液体がべっとりと着いているが……塗料が取れてしまったのだろうか。ヒビのようなものも入ってしまっている。ミニチュアにしてはあまりにもそれは緻密に作られていて、わたしはまじまじとそれを観察してしまった。さすがに気が付いたのか、落とし主が引き返してきてわたしを覗き込んだ。
「よォ、お姉ちゃん……拾ってくれたのはありがたいぜ……ただ、何見てやがるんだ?」
「これ、どこで手に入れたんですかッ!?」
この時、ホルマジオの表情が大きく歪んだことなんてわたしは全く気が付いていなかった。
「どこって……テメェ……」
「だって……これプラ板じゃあないし……材質が本当に琺瑯だわ……琺瑯っていうのは金属の上にうわぐすりを塗って焼いて作るの。どうやってこのサイズで……しかも、このポットはちゃんと水を注ぐことができますよね? こんなの作ってくれる工房があるならわたしが頼みたいし、こんな細かい技術が欲しいですッ……」
それを聞くなり、ホルマジオは暫しの間俯いた後、堪え切れないというように笑い出した。そのまま、琺瑯のポットをどこで手に入れたのかははぐらかされたまま、お茶に誘われてしまったのだと思う。ホルマジオは呆れながらもわたしの話を聞いてくれて、ホルマジオも、変わり者ながらこんなわたしのことを面白いと思ってくれたんだろうな。わたしはオシャレもあまり興味のない、色気のない引きこもり女だけど。そう思っていた。
――何番目かの恋人にはいいけど、結婚するには向いてないんじゃあないかしらね……ホルマジオはモテるだろうし。
過去のことを思い起こしながら、わたしはガラス片をはめ込んでいく。先日、青やピンクに塗って乾かしたそれを組み合わせて、ステンドグラスを作るのだ。
――馬鹿馬鹿しいわよね、いざ手が届かないと知るや、こんな物を作りたくなっちゃうなんて。
次の題材探しで本を読み漁っていて……目を惹かれたのが、よりによって教会だった。
――いいじゃない。わたしのドールハウスの原点は、そこなんだもの。わたしの理想の世界を具現化することなんだから。
一日中作業をして、時計はとっくに零時を回っている。電気スタンドの灯りに照らされて、ステンドグラスがより際立っていた。ホルマジオはしばらく家に来ていなかった。彼が家に来ても、作業に夢中であるよう振舞っていたのだ。来なくなって当然かもしれない。ただでさえ女性の心に聡い彼が、私の心変わりに気付かないはずがないだろうと。そのまま嫌いになってしまえばいいのだ。でもそう思う度に、胸が締め付けられるような錯覚を覚えた。
* * *
「おい、起きろよ。風邪引いちまうぜ?」
肩を揺り動かされて、重たい瞼を上げた。作業に疲れて眠ってしまったのだろうか。自分はエプロン姿のままだった。
――どこまで仕上げたっけ……あっ、作品の上に寝てない!?
そこでガバッと身を起こせば、薄暗い、白っぽい壁の建物の中にいるのが分かった。
「あれ、わたしの部屋は……」
「寝ぼけてんじゃあねぇぜ」
そう言ってわたしの手を取ったのは、ホルマジオだった。驚いて手を振り払おうとするわたしを、彼は逃がしてはくれなかった。
「つれねぇな。まッ、ここ数日没頭してたみてーだからなァ。そりゃあお疲れだろうぜ。ついでにちょっくら夢でも見てみろよ」
そう言われると手を引っ張られ、弾みで立ち上がってしまった。すると視界が上がるにつれて広がり、思わず圧倒されてしまった。わたしが座って眠り込んでいたのは、木製の長椅子、そしてそこは……わたしが作ろうとしていた教会だった。寝る前に建物本体にはめ込んだステンドグラスが、正面でどこからかの光を受けて淡い光を放っている。そしてその上に掛けられた十字架……ああ、この建物は天井がないではないか。まるで近すぎる太陽のような電気スタンドも見えた。そして、ところどころ資材を削った屑が落ちていたり、ボンドのはみ出した部分がある。これではまるで、わたしの作っている最中の教会そのものだ。
「こんなそっくりな建物に……いつの間に……」
「そりゃあ違うぜ」
ホルマジオはやっぱりわたしの手を引いて、祭壇の前まで連れて行った。引っ張られた際に、腕にピリリとした痛みを感じた。いつの間にか腕に一筋の切り傷がある。どこで怪我したんだろうか。まあ、利き腕とは反対の手だし、ドールハウスやミニチュア作りに使う指の怪我でないだけまだマシなのだが。
「だから、疲労困憊のついでに夢でも見てなっつっただろうが。ここはお前の作ってるアレの中だ」
一瞬何を言っているのかと思った。しかし、夢だというその言葉が、なぜかストンと心に収まった。夢だから、ホルマジオがこんな風に王子様のように振舞っているのかもしれない。
――自分のドールハウスに入れたら……そりゃあ夢よね。自分の理想の世界だもの。
「お前の作った世界ってのはいいよな。小さいってだけでも自分の掌で転がせるのによー、お前が創造主ってことは、カミサマだぜ。なーんて教会の十字架の前で言うもんじゃあねぇけどな」
ハッハッとホルマジオは笑ったが、わたしの両手を取って重ねさせると、そのまま跪いてキスを落とした。わたしを見上げる視線が熱っぽい。キスをされた手が瞬時に熱くなるなんて、わたしもやっぱりホルマジオが好きなんだなぁと改めて思ってしまう。たとえ嫌いになれなくても、一生彼にはドキドキさせられてしまうんだろう。しかし、彼の考えていることはそんなことを遥かに超えていたようだ。
「カミサマっつーもんがいるのか知らねーが……いるなら、その前で誓う。いないなら……ここの創造主に言いたいことがある」
わたしの両手を握るホルマジオの手に、何か金属製のものが握られているとは思っていた。しかし、それを見せられて、そして指に嵌められたところで、あっと思った。それは左手の薬指に嵌められて、ピッタリだった。
「お前との……二人の世界を生きてゆきてぇんだ……ダメか……?」
ピロートークで済まされたあの時の会話とは、全く違う。身体や一時的なものではない、本当に必要とされている。そのことに感涙しそうだった。ただ、ここ数日考えていたことが頭をもたげる。
「でも……一緒に生活なんて……できないわよ……二人だけじゃあないでしょ?」
猫のことだった。
「それに、こんなことが夢だなんて、タチが悪いわ」
ホルマジオの顔を見られなくて、顔を伏せるように視線を逸らした。だが、顔を伏せたところでホルマジオは下から覗き込むように笑った。
「アイツのことかよ……いいぜ、お前の居城には入らないようにしてやる。広い家に引っ越してお前の仕事部屋を作るなり……あのまま俺の家を残して、そこで飼ってもいい……それと」
そこまで言うと、ホルマジオはわたしの左手を掴んで走り出した。腕が引っ張られた際に、指輪がキラリとステンドグラスからの光を反射した。礼拝堂の真ん中の通路を男女が駆けて行くなんて、まるで結婚式から連れ出される花嫁だ……エプロン姿なのだけれども。
「夢かどうかは……お前が確認するんだなッ!」
扉のない礼拝堂の出口から先は、闇だった。そこへホルマジオは止まることなく飛び込んで行く。わたしもそのまま一緒に、闇へと落ちて行くしか無かった。崖から飛び降りたような感覚の後、ドサリと転げる感覚があった。床に叩きつけられて痛いはずなのだが、あんな断崖絶壁を落ちたような感覚ではない。
暗闇に目が慣れてみれば、そこはわたしの作業部屋だった。電気スタンドの小さな光に照らされたわたしの作り掛けの教会のドールハウスが、1/12サイズで作業机の上に置かれている。その灯りで、ホルマジオがわたしを受け止めてくれているのが分かった。道理で痛みを感じないはずだ。慌てて彼に謝りながら起き上がる。しかし、彼はニヤニヤ笑いながらこう言うのだ。
「どうだ? 夢だったか、プリンチペッサ?」
そう言って下から持ち上げられるように取られた左手には、光る物が付けられたままだった。
FINE.