病室のドアを少しだけ開けた。引き戸になっているそれは音を立てず、彼は起き上がって窓の外を眺めているままであった。首に痛々しい程の包帯の跡。リハビリ中でもうちょっとで退院できるとはいえ、心苦しかった。当時は仕方がなかったとはいえ、そうしてしまったのは自分である。
彼はその小さな溜め息を聞き逃さなかったらしい。ピクリと彼の肩が震えたかと思うと、すぐにあの赤いフレームに囲まれた三白眼と目が合った。彼はその無表情のまま手招きした。観念して病室に足を踏み入れる。お加減は? と訊いても、彼は変わらないという風に手をひらひらするだけだ。
このやり取りを何度繰り返しただろう。ジョルノがボスを倒して組織のトップに登り詰めた後、わたしはたまたまギアッチョの生存を聞きつけた。そこで途方もない罪悪感に襲われたのだった。あの時のわたしたちは何も知らなかった。ただトリッシュを守るために向かってくる彼らの仲間も彼も返り討ちにした。しかし、わたしたちは知らなさすぎた。ボスの企みを。結局わたしたちブチャラティチームはボスを裏切った。せめて何かを、もう少しだけでも知っていれば、彼の声を奪い、彼を独りぼっちにすることなどなかったのではないか……そう考えられずにはいられなかった。
当初、ギアッチョはわたしが近付いても瞳に何も映していなかった。わたしの厚かましく身勝手な謝罪をただ静かに聞いていた。だが、なぜかこれまで入室まで断られたことはない。ジョルノのゴールド・エクスペリエンスによる喉の再生はあれだけ拒否したというのに……。拒否されないのをいいことにこうして病院に通うわたしのことをミスタは呆れ顔で、ジョルノも意味深な表情で見ているのには、前から気付いている。
「ギアッチョ、もうすぐリハビリも終わって退院ですってね……食事も普通通りに取れて来たみたいで、よかった……」
病室に来る途中、看護師からたまたま聞いた。恐らく家族か身内だと思われたのだろう。現にギアッチョの入院治療に掛かる費用はパッショーネがもっているから、身内といえば身内かもしれないのだが……。でも、本当は良くない。退院したら、彼はどうなるのだろう。わたしは、これまでのように見舞いにも来れないんじゃあないか。そう考えると、たまらず紙袋の持ち手をギュッと握りしめた。
「……」
ギアッチョはそんなわたしを一瞥すると、紙袋を指差した。彼が声もなく話し掛けてくることなど珍しいため驚いてしまった。
「ああ、これ……?」
いつもなら、ギアッチョはわたしの事など興味がなかった。だから、優柔不断なわたしの様子に気付くはずなんてないと思っていたのに。
ギアッチョに対して抱く想いは、贖罪の気持ちだけでない。でも、この想いはそれがあるからこそ許されるものでないことも分かってはいた。渡すわけにはいかない。第一、彼は喉を負傷しているから、刺激物のチョコレートなんて受け付けるはずないのだ。そんな中途半端な想いで購入したチョコレートを、自宅で貪るつもりだったのに。
ギアッチョはそこで壁に掛かったカレンダーを指差す。その表情はどこか険しい。
「ええ、今日は2月14日ね……特に意味はないわよ、こういう日だからギフト用に売ってたのを自分用に買ったの」
嘘だ。そう自覚はしていたのに、突如グッと腕を引っ張られて揺らぎそうになる。倒れ込みそうになったが、ギアッチョは既にベッドから立ち上がっていて、わたしを支えると、そのままスタスタとカレンダーの前まで引っ張って行った。そして、14日の下に書かれた小文字を指差す。
“Festa degli innamorati”――恋人たちの日。
「いや……だから……」
皆まで言わせてくれなかった。ギアッチョは、わたしの持っていた紙袋からラッピングの施された箱を無理やり取り出す。包装をビリビリと派手に破く彼の目は、間違いなくキレていた。乱雑に箱を開けてチョコレートをひとつつまむ。
「ちょっと、ギアッチョ、チョコレートなんて……」
制止する間もなかった。あっという間にそれは彼の口に含まれて、咀嚼される。喉を負傷して、顎なんてずっと動かしていなかっただろうに。いや、リハビリ中のはずなのに。大きく動かされるそれを恐る恐る見ていると、さらにひとつ、ひとつとギアッチョはチョコレートを次々に口を運んでいった。
「ねぇ、やめて! リハビリ中なのに!」
見るに堪えかねて彼のチョコレートを摘まんだ手を握りしめた。眼鏡の奥から激情のこもった鋭い視線が向けられる。しかし、しばしの間黙って見つめ合ううちに、彼はごくんと呑み込んで、すっと目を細めた。落ち着いたのかと思いきや、持っていたチョコレートを、なぜかわたしの唇に押し当てた。今度はわたしが目を見開く番だった。
“開けろ”
そう彼の唇が動いた。言われるままに唇を少し開くと甘い香りが鼻腔をくすぐり、口に入ったものはトロリと溶けて、ほろ苦さが広がった。彼とは違って、わたしはそれをゆっくりゆっくり咀嚼する。なぜか一緒に涙が出そうになった。鼻腔をしょっぱいものが落ちていく。
「何が……ワケ分かんないよ……」
ギアッチョは険しい表情で再び唇を動かそうとしたが、そのまま口をつぐんでしまった。新しいチョコレートを取り出して、再びわたしの唇に当てる。もういいと言い掛けて、ギアッチョの唇が再び動くのを見た。それを見たわたしは固まってしまった。そして思わず後ずさる。
“Ti amo”
確かにそう動いたのだ。
「何……言ってるの……あなたの喉を街灯に突き刺したのも……あなたの仲間を奪ったのもわたしなのに……そんなことがあるわけ……」
口に残ったチョコレートの味は、ますますしょっぱくなる。ギアッチョの姿が滲む。なのに、この上なく心臓が高鳴って顔が熱くなっている。チョコレートに触れたら、溶けてしまいそうなほどに。ギアッチョは近付いてきて、ゆっくりと区切りながら口を大きく動かす。
“お前が、来るのが、望み”
そして、わたしの手に今度は持っていたチョコレートを載せた。今度は迷わない。ギアッチョの言葉に応えるように、それをそっと彼の口元へと運んだ。彼は少し驚いた顔をしながらも、それをキスでも受け容れるように吸い込むように咥内へと誘い込んだ。先程とは違って、彼もわたしのようにゆっくり咀嚼する。それを待って、静かに告げた。
「勝手だけど……わたしもそう。いつの間にか……」
またもや、彼は皆まで言わせない。そのままチョコレートを手にしていた手から引き寄せられて、彼の胸に飛び込んで行くしかなかった。口元の甘い香りに、寝間着や髪の匂いが混じって、彼の硬く熱い肉体に包まれて、まざまざと感じたのだった。
――良かった……あなたが生きていて、良かった……。
FINE.