黒い装い【アバッキオ】

彼女が柱の陰で、ケータイを取り落としたのを見た。叩きつけられたプラスチックの音と、電話口からここからまで聞こえる、もしもし!?という苛立った声によって我に返ったようだ。慌てて拾って耳に当てて、続きを小声で話し始めた。ブチャラティはリストランテにいたし、コイツに今電話してきそうなメンバーに心当たりは無かった。となれば、俺が立ち聞きするような事じゃあない。そう思ったのに、なぜか俺の足は部屋に入る前に、ピタリと動きを止めてしまった。

「行けるワケ、無いじゃあない……わたしはもうそっち側に戻れないの……一日だけ、とかそういう問題じゃあない……そりゃあ、わたしだって……」

そこから始まった彼女の嗚咽により聞き取り不能になったところで、俺はやっとその場を去った。リストランテに入るのは止めた。

* * *

なんとなく気になって、翌日彼女のアパートで朝から待ち伏せた。万が一組織やブチャラティを裏切るような事だったら手を打たなくてはならない。全身黒ずくめの装いの女が出て来た時、俺は思わず身構えた。だが、帽子に付けられたチュールに違和感を覚え、さらにその中の顔に気付くと、無意識に目を瞬いてしまった。それは喪服に身を包んだ彼女だったのだ。

――なるほど、『そっち側』の人間が死んだか……。

昨日、彼女が電話に向かって話していた言葉をつなぎ合わせる。結局彼女は一日だけ戻る選択をしたのだろう。

それにしても、普段明るい色調の服を着こなす彼女と、目の前の真っ黒な女が同一人物とは思えない程の衝撃だった。チームのムードメーカーたる彼女が、火の消えたように、存在感も消して亡霊のように歩いているのが、俄かに信じられなかった。当初想定していたものとは別の危うさを感じ、俺は彼女を引き続き追った。

彼女は想定通り教会に向かっていた。だが、教会に着いても、決してその中に入ろうとはしない。受付係の信徒にさえ見つからないように、そっと墓地に目をやるだけだった。

「お前、その服を着て来る必要があったのか」

思わず声を掛けていた。正直、陰から見守るだけならいつもの服装の方が目立たなくて良かったのではないかと思ったのだ。びくりと彼女の肩が上がる。振り向きざまに彼女は口の前に人差し指を立て、眉間に皺を寄せつつ、低い声で言った。

「頼むから今も後も、黙ってて……誰にも見つかりたくない……」
「ああ……で、ありゃあ誰だ」
「おばあちゃん。昨日、いとこから電話があって……」

それが俺の立ち聞きした場面だったのだろう。彼女はしばしの無言の後、思い出したように言った。

「だって教会……しかも墓地じゃあないの。日曜日でもないのに、普段着でうろついてる方が目立つわよ。……それに、やっぱり、そういう形式を気にする年代の人だから」

俺はそれを聞いて――いや、もっと前からだ――かつての同僚の事を思い出さずにはいられなかった。たぶん、俺が最も忘れられない人の死というのは、アイツしかいなかったからだろう。だが、そこまで言ったところで彼女は歩き出す。急に教会を離れ出したのだ。

「なーんて、形を気にするんじゃあ、日陰者になったわたしになんて、弔って欲しくないわね」
「待て。じゃあ、何のために来たんだ、ここに」

あの時、アイツの葬儀に出る出ないの話ではなかった。何たって俺が収賄の罪に問われていた真っ只中でもあったからだ。だが、たとえ葬儀に出られたところで、そこまで同僚の事を考えられただろうか。そもそも自分が死ぬキッカケになった野郎が何を足掻いたって、喜ばれる事も報われる事も無いだろうから。俺の思考はそこで止まっていただろう。

だが、彼女はそうじゃあない。彼女はきょとんとしながらも、元居た教会の陰に戻ると、胸の前で手を組み合わせ、目を閉じ祈りながら、彼女の祖母が埋葬されるまでを見届けた。

「ありがとうね」
「何がだ」
「だって、ずっとついててくれたじゃあないの」

なぜか彼女が教会を出るタイミングまで、そこにいてしまった。慌てて歩みを早めたものの、すぐに彼女は追って来る。

「早く帰って着替えろ。自分の過去に関わったとこを見られたらマズいんじゃあねぇのか」

そうよね、とだけ彼女は言って、俺を追うのを止めてしまった。

「アバッキオも、何事かと思われちゃうもんね……」

そうじゃあないと思わず言い返そうとして、出来なかった。

「アバッキオ、そんなにわたし、この服が似合わない?」
「馬鹿かお前は。喪服が似合うヤツがいてたまるもんか」
「でも、あんまりわたしの事見ないから」

最初はごまかしていたのに、もうそこから俺は二の句が継げなかった。

「おばあちゃんはね、長生きしたわよ。家族に看取られて安らかに眠りに就いたの。きっと天国に迎えられたと思う。だから、不幸なんかじゃあない」
「お前が不幸そうな顔で言っても説得力ねぇぜ」

今度は俺の言葉に、彼女が絶句する。ただ、それも束の間だった。

「でもアバッキオは、いつもそんな顔だと思う。だから、言いたかったのは、いつまでも死を引き摺る事無いって事よ」
「別に引き摺ってねぇ……そういうお前だって、引き摺ってんは死そのものじゃあねぇだろ」

半ば俺自身についても認める言い方になってしまったが、彼女はそれ以上に図星だったらしい。今度は本当に何も言わなくなってしまった。だから、もう一度言った。

「早く帰って、着替えろよ」

彼女は次こそ、黙って頷いた。

FINE.