「いらっしゃいませ。あっ」
いつものように、入店して来たお客様に声を掛ける。しかし、その人物と目が合って、わたしは固まってしまった。
「アレックス、こんな遅くまでバイトしてるのか」
いや、目が合うまでもない。腕組みをした、白地にオタマジャクシ柄のスーツ。全身が白いシルエットが視界に入った時点で、もしやと思ったのだ。彼はわたしの隣にいたマネージャーにお辞儀をし、自分が担任教師であることを伝えた。怪訝そうに見つめていたマネージャーがニコニコ挨拶を返すも、それが営業用のものなのが分かる。
「バイト先に来てまでお説教ですか……?
そういう自分はどうなんです……すっごい残業してるじゃあない。教員ってやっぱブラックぅー。
高校生だからもう上がりますよぉーっだ」
むくれていると、先生は、わたしの好きなあの笑みを零す。
「じゃあ、家まで送って行こう。それまで待っているから注文するぜ。まず、スマイルひとつ」
「もう……ブチャラティ先生……ありがとうございますッ」
お決まりの台詞と笑みを送ったものの、なんだかむず痒い。注文を聞き終わったらすぐに振り返って、紙コップをもぎ取って、音を立てて氷を掬う。弾むようにコーラの注入ボタンを押してしまったのが、自分でも分かった。先生はそのままわたしの仕事が終わるまで、遅すぎる夕食……と思われるセットを店内で食べながら待っていた。
* * *
「いつもこんなに遅い時間に入っているのか?」
先生の運転する車の中で、尋問が始まる。狭い空間に二人きりで嬉しいはずなのに、目を合わせもしない問いかけが辛い。運転のためルームライトは消されているものの、メーターパネルのライトに照らされた先生の表情は穏やかそうで、笑っていない。
「そんなことないですよー、今日はたまたま代わってくれって言われちゃってぇ……」
本当は代わってなんかいない。
「おうちの方は? 迎えに来ないのか。連絡しなくて良かったか?」
「ああー……大丈夫です、さっき車に乗る前に連絡しました」
これは本当。いきなり担任が訪ねて来たらいくらあの親でも驚くだろう。
「家に着いたらご挨拶して帰ろう」
「えー、そこまでしなくったって……」
まあ、いいんだけど。わたしのバイトは家族も容認している。ただ、開き直られて、平日のディナーからクローズギリギリまで、土日はフルで入るのが常なのをポロッと言われてしまうとマズいけど。
「それで」
赤信号で車を停めると、そこで先生はようやく視線を投げかけてきた。優しさの裏に、凄みのある目をしている。
「#name#、うちの高校はアルバイト禁止だったな? ん?」
……遂に来てしまった、この質問が。
「別にお小遣い稼ぎとかじゃあないんです……進学資金です」
「如何なる理由でも、ダメなものはダメだ」
青信号で、先生は再び前を向いて車を発進させる。
「今日はもう遅いからこれ以上の話はしない。明日、授業が終わったら図書室の準備室まで来るんだ」
その後も、十時までに上がったって、こんなに帰りが遅いじゃあないか、と独り言のような小言を聞かされながら自宅へ向かった。
自宅に着いて、インターフォンを押したのは先生だった。母親が鍵を開けてドアを開けたところで、わたしは先生をすり抜けて中に入った。母親が咎めるが、構いっこない。玄関にほど近い自室に入り、カバンを置いてベッドにダイブする。先生も、詳しい話はしないといいつつ、挨拶だけで済ませていないのが聞こえてくる。やっぱり、先生と親に、余計なことを話させないためにも残った方が良かったんだろうか。そう考えているうちに、ブチャラティ先生は特に長居することなく帰って行った。あとで就寝準備のため、部屋を出たところで母親がボソリと言った。
「あんたの担任もクソ真面目ね。こっちはこっちの事情があるってのに」
* * *
重い足取りで、放課後に図書準備室に向かった。図書室の隣にある、貸出カウンターにつながる部屋。いつもだったら当番の図書委員がお喋りをしていそうなものなのに、図書室の前に来てみれば、なぜか今日に限って閉室の札が掛けられていた。引き返そうかと思ったが、手を掛けて引いてみれば、図書室の鍵自体は開いていて、ガラガラと開いた。恐らく国語教師の立場で、ここを居城にしているブチャラティ先生の独断だ。そのまま入って図書準備室の扉をノックすると、ブチャラティ先生の返事が聞こえた。
「来たか」
奥の椅子に掛けていたブチャラティ先生がこちらを見る。ブチャラティ先生の背後にはから西日が差し込んで、陰になった表情はよく見えない。どこから持ち込まれたのだろうか、いつも図書委員がダベっているソファーに、座るように指図される。
「早速だが……昨日、お母さんと俺が何を話したか聞いたか」
首を横に振る。でも、分かっている。あの母親の一言で。少し俯き加減になったがために、やっと見ることのできた先生の表情が、切ないものだったからだ。
「#name#、アルバイトは……辞めるんだな」
やっぱり。でも、あっさり「はい」と言うわけにはいかない。
「できません……親だって、辞めろと言いませんし、うちには上の兄弟もいて、わたしの進学費用が無いんです。だからわたしが……」
「それは分かっているが――」
「分かるなんて気軽に言わないでくださいッ、同情も要りません!」
ブチャラティ先生の切ない表情を見たときから沸き起こった感情が溢れた。あれは同情の目だ。
「……分かった、それは悪かった。でも聞いてくれ」
思わず立ち上がったわたしの手を、ブチャラティ先生が取った。こんな時なのに、思わずドキリとしてしまう自分が憎らしい。しかし、ブチャラティ先生は硬直したわたしに、すぐに手を放してしまった。
「そうだ、俺には分からない。少なくとも俺の父親は、俺の進学資金のために仕事を増やしてまでしてくれた親だったからな。だが、それ故に死んだ。俺は奨学金や色んなモノを駆使するしかなかった。たとえ奨学金の返済に将来苦労すると分かっていても……な」
切なかった目に、不思議な光が宿っていた。
「俺もすぐに手立てがあるわけじゃあない。#name#と一緒に親御さんを説得するのもそうだし、奨学金も良いことばかりじゃあない。今時返済で破産する時代だからな。
だが、あんな夜遅くまで、誰でも来られる飲食店で働いて……確かに仕事は10時までと決まっているかもしれないが、それでも遅い。帰宅時間は何時になる? 駅から離れてあんな暗い夜道を一人でだぞ? 何かあったら進学もヘチマもないぞ?」
先生にしては珍しく、畳み掛けるような言い方だ。気を付けてます……というわたしの声も、蚊の鳴くような声にしかならない。
「分かった。じゃあ次の問題だ。今のところ、#name#があのファーストフード店でバイトをしているのを知るのは俺だけだ」
さっきまでとは違って落ち着いたトーンで話す先生だったが、その分話し方に冷たさといやらしさが混じっている。
「さすがに高校から離れてるっていうだけじゃあない。行きにくい路線の店を選んだな。
だが、さっきも言ったように誰でも行ける店なんだ。
つまり、誰に見つかったっておかしくはないんだ」
それも……分かっていたつもりだった。ブチャラティ先生は見逃してくれようとしてる……でも、他の先生はきっと違う。
「そうしたらどうなる? 君は罰を受けることになるし、その罰は進学にも響く。
君は自分の行為で自分の夢を滅ぼしているんだ、金のために……」
「やめてくださいッ……そういう言い方……。
それは、校則の勝手じゃあないですか……うちみたいな家庭の事情なんか……」
あまりにも冷たい先生の言葉に、思わず声が裏返るように高くなった。目の奥もじわりと熱くなる。
「悪いな……だが、それが学校なんだ、#name#。君が出て行くだろう社会だって、ルールがある……。
だから、これから俺も考えていく。君が自分の夢に向かっていける方法をな。自分だけで何とかしようとするんじゃあない。#name#はまだ、そこまでしなくていいはずの子なんだ」
少し語気の強まった先生の言葉を聞いて、逸らしてしまった視線を戻した。熱く潤んでいるのはわたしの瞳(め)だけじゃあなかったみたい。それを見て、もう諦めた。
「……マネージャーに……今日、電話します……。
でも、いつが最後になるかは、約束できない。シフト入れたのだって社会への約束ですから」
「そうだな、お店に迷惑を掛けてしまうな……。
バイトに限らず、話しにくいことがあったら何でも俺に言うんだ。バイトのことは、また店まで行っても構わない」
いつの間にか、いつもの先生に戻っていた。話は終わりだと先生は言った。でも、ひとつだけ訊きたいことがあった。
「先生。何で知ったんですか? わたしのバイトのこと」
「ん?」
「だって……完全に辞めるまでに、気を付けないといけないじゃあないですか。
ブチャラティ先生にバレたルートは、断っておかないと」
すると、ブチャラティ先生は手元にあった自分のコーヒーカップに手をぶつけてしまった。カップは落ちなかったものの、残っていた飲み物が大きく揺れて零れる。ブチャラティ先生は、そっとその手をさする。
「ああ、大丈夫だ……」
「?」
「いいから、大丈夫だ。それは心配ない……」
先生の顔が少し赤く見えたのは、夕陽のせいだけだろうか……。それを見て、わたしも訳が分からないまま、顔が熱くなった。
――先生は、やっぱり素敵だ……誰にでも優しい……。
苦しくなる胸を隠すように、準備室を出た。その後ろ姿を見守る先生の胸中も知らずに。
FINE.