「えっとぉ……」
僕の言葉に、彼女は顔をしかめ、言葉を濁した。
「仕事仲間で、そういうのは、どうかと思う。わたしたち普通の仕事じゃないし」
彼女が誘いにシ、と乗らなかった時点でダメだとは思っていた。でも、これが決定打となった。
「分かった。さっきのは忘れてくれ」
フラれた事実を本当は僕自身が受け止められていない。その羞恥の余り、無かった事にしたくなるのは、誰にしもあるのでは無いか。しかし、彼女は違ったらしい。
「何それ……わたしってその程度なの」
「誰もそんな事言ってないだろ」
「じゃあなんで誘って来たの。ランチはともかくディナーまで」
それを訊くか? 振ったのは君じゃあないか。怒りが沸々と自分の中に込み上げてくるのを感じる。何も口にせずにいたら、彼女は何かに気付いたように、一瞬だけ大きく瞳を見開いた。彼女の長い睫毛が揺れて、やっぱり可愛いなと思ってしまう僕は末期だ。
「ミスタやナランチャみたいになりたかった?」
僕は黙っている……いいや、正しくはその振りをしているだけだ。彼女の言葉に心臓の辺りが痛くなったなんて言える訳が無い。ブチャラティチームが拠点にしているリストランテ。ふと気付いて彼女を目で追えば、大抵ミスタとナランチャとふざけて騒いで、アバッキオに目くじらを立てられている。そんな君たちが、輝いて見えるなんて。口が裂けても言うもんか。
「別に、出来るよ。アモーレにならなくったて」
そう言う彼女の声は明るい。表情だっていつも通り。しかめっ面はどこかに行ってしまい、絶やさぬ笑みが戻ってきている。ああ、とだけ言って、その日僕は拠点を後にした。彼女とふたりになりたかったのなら送ってやるべきだったんだけど、もう僕はフラれてしまったのだから。
それからも、僕と彼女の関係は変わらなかった。あんな事を言っておきながら、ミスタやナランチャと彼女の輪の中に、僕が入れて貰えた訳でも無い。でも僕は構わなかった。後になって冷静になってみれば、それで全ては解決していたのだ。彼女は『職場』でアモーレは作らない。なら、彼女と楽しそうにしてる奴らがそうなる可能性はゼロって事で、僕が心配する必要なんて無くなったんだから。今までリストランテでカリカリしていたのが嘘のようだった。今日も一仕事終えた後の紅茶が美味しい。
「フーゴ」
その血色の良い唇が、僕の綴りをなぞるように形作られているなんて。以前はそれだけでいたく感動したものだ。前は。今の僕の目はティーカップに向けられただけで、辛うじて残った紅茶の水面で、それを確認している。
「何だ」
呼びつけておいて彼女が何も言わないので、僕は痺れを切らした。それでやっと、僕の傍らに立つはずの彼女に目を向けてみれば、それは萎れた花のような姿勢で、なぜか瞳は潤んでいる。彼女もギャングなのだ。こんなさめざめとした表情を、簡単に人には見せたりしない。
「フーゴ、あれからわたしの事見てくれない」
そういう君だって、僕を見下ろしているようで、僕を見てないじゃないか。そんな反論をしても、彼女の瞳に僕が映っていない時点で、届かないだろうと思われた。
「わたしの事、嫌いになった?」
そこで漸く僕に焦点を合わせた彼女に、ぷちんと頭の中で何かが切れた気がした。ふざけるなよ。次の瞬間には、彼女の手を片手で鷲掴みにしながら、椅子を蹴るように立ち上がっていた。リストランテ中の客もウェイターも、たまたま居合わせたブチャラティチームの面々も勿論目を丸くしてこちらを見ている。
「君はッ! 馬鹿なのかッ!?」
なんでそれを訊くのが真昼間のリストランテなんだ、なんで僕がディナーに誘った時のような、静かで二人きりの時じゃないんだ、何よりも、どうしてそう思ったんだ!? どうして振ったはずの君が、そんな事を言うんだ!?
そして僕は、どうしてあの日のように、素直になれないんだ。怒りの中に一欠片だけ残っていた理性のせいで、悔しくて悔しくて、彼女の手を握る僕の手が震える。アバッキオが溜め息をついて、どっか他所でやれと低い声で言う。お言葉に甘えて、その通りにさせて貰う。彼女の手を握りしめたまま、店の外に引っ張って行った。振り向けば彼女の瞳はもう決壊直前で、僕はやれやれと嘆くように息を吐くしかなかった。
「断ったのは君だ。その気が無かったのは、君の方だろう?」
「じゃあ、フーゴはその気だったの?」
縋るような彼女の瞳に、思わず手に力が篭る。そうだ、彼女の手を握ったままだった。でも今になって放せない。
「君の微笑みを、僕に向けて欲しいと思わなければ、誘ってない」
ああ、何を言っているんだ僕は。激しく後悔しかけたものの、彼女が目の端から、キラリとしたものを伝わせつつ、口の端を上げて僕を見てくれたのなら。これで、今からでも来てくれると言うのなら。僕は後悔はしないだろう。